つれづれ雑ぐさ

新たな時代変化への想いを、自身の実体験とともに日記調に書きなぐったものです

数字マジックの恐怖 その8

オミクロン株の蔓延が示唆していることは何だろうか?それは、社会運営の仕組み(基盤)を根底から揺さぶっていることの重大さである。それは、時代が変化しどんなに個人主義が浸透しても、人は誰か・何かに支えられて生活できていたことに、あらためて気付かされることである。

病気になれば医者にかかればいい、急に必要なモノがあればコンビニに走ればいい、働きに出るなら幼い子どもは保育園(幼稚園)に預けて・・・等々は、あくまで平時、社会運営の仕組みが正常に機能していることを前提にした話である。

感染の恐怖は、重症化の有無を問わず人間相互の不信、疑心暗鬼を増長し、世代間断絶の溝を拡げている。しかし、今必要とされているのは、それとは真逆の人間同士の強い信頼に基づく真の支え合い、健全な社会運営の仕組みの維持に他ならない。

他国の一部において、感染者数の減少傾向に基づくコロナ収束論がその期待感とともに出始めたがいかがなものだろう?パンデミックに認定されたコロナの収束宣言は、好むと好まざるとに関わらず、パンデミックを宣言した(権威ある?)WHO(世界保健機構)の判断を待つほかないのではないだろうか?

身近に感染者が出た情報が入ってくるにつれ、数字マジックの恐怖が刻々と現実味を帯びてきたことを実感する今日この頃、第6波のあとに第7波が来ないという根拠はどこにもない。

つづく

 

自費出版はじめの一歩 その3

読書が趣味という人は多いと思う。読書とは、文字通り、書(書籍、いわゆる本)を読むことである。では、本を書く、すなわち執筆・作文が趣味という人はどれくらいいるのだろうか?

調べたわけでもないが、執筆・作文の中に日記を含めても、かなり少ないのではないか?と思う。「趣味は執筆です」と言う人の話をあまり聞かないからだ。それは、執筆という言葉(語感)が、非常に専門的な人(ex.作家、著者、著述業の人など)のプロパーな仕事・職業をイメージさせ、ハードルを高く感じさせているからではないか?と思う。

そして、執筆活動は、通常、公への出版活動に紐づいているため、出版手続きという素人には、さらに取りつきにくいイメージを強調させている面もある。ただ、最近は、SNSの隆盛に伴い、一般の人たちのブログ・ツィッター・noteなどを使った投稿・情報発信は増えていると思われる。

振り返ってみれば、執筆・作文という活動の原点は、自身の場合、子どものころ「日記をつけなさい」と親から勧められたことや、夏休みや冬休みの宿題の一つとして、「好きな本を一冊選んで読んで、その読後感想文を書いてきなさい」が出されたことにあったような気がする。

一般論として、社会に出て生活していくためには「読み」「書き」「話す」「そろばん(算術)」ができることが必要とされ、実際そうだろうと思うが、「書き(書くこと)」については身近な親しみやすいイメージを抱きにくい背景がある。

例えば、仕事においては、報告書・連絡書・企画書・論文などなど、私的においても、あいさつ文・お礼状など、想いや気持ちも含むとは言え、どちらかと言えば形式を重視した堅苦しい面も確かに多い。

そういう意味では、書くこと=執筆・作文を、語感は別として、もっと自由で身近な活動として位置付けていいのではないだろうか?例えば、日々見聞きし実体験した様々な出来事から感じた想いを、ありのまま素直に書き留めていく。それで十分である。

そういうことの繰り返し・積み重ねは、執筆・作文という言葉の持つ語感ハードルを下げ、書くことに親しみを感じる活動にしていく。そして、それは、やがて自然に(ex.執筆量が溜まる、世の中に披露してみたい想いの発現などをきっかけにして)出版(自費出版)活動へと自らを導いていくのである。

つづく

 

モノの機能性とは? その2

どんな石油ストーブにも共通する必要な作業は、燃料である灯油の補給である。ストーブに装備されたタンクを引き抜いて外し、ひっくり返した状態で、別の補給用タンクに入れておいた灯油を、ポンプなどを使用して補給する作業である。

この作業自体も煩わしいが、もっと煩わしく、ある意味、将来的に誰にでもできる作業であり続けられるか疑問な作業がある。それは、①ガソリンスタンドなどで、灯油を購入し上記した補給用タンクに充填して持ち帰り、②屋外に置いた保管庫などに一時収納しておく。③灯油の補給が必要になったら、保管庫から補給用タンクの一つを取り出し、④そこからストーブのタンクに補給する作業である。

この①~④の作業ステップにおける課題について検討する場合、重要なポイントは重量物の昇降や運搬作業における身体各部への負荷である。灯油18l缶で14㎏程度はあろうから、それなりに重い荷物に相当すると言える。

このため、健常者や若い世代には何ら問題ない負荷に思えても、女性や高齢者、身体の一部(例えば、腰や膝など)に故障を抱えた方々にとっては、負荷が大きく感じられる作業になるのではないだろうか?

以下、各ステップごとに、問題点とともに述べると

①-1マイカーなどに補給用タンクを積み込むとき・ガソリンスタンドでそのタンクを取り出すときは、タンクは空状態なので軽く問題はない。しかし、灯油を補給した後、再びマイカーに積み込むときは満タンなので重く、マイカーまでの運搬および積み込むための無理な作業姿勢によって負荷がかかりやすい。

①-2持ち帰った満タンの補給用タンクを、自宅の保管庫に一時収納するにも負荷がかかりやすい。なぜなら、マイカー(駐車場?)から保管庫までの、重いタンクの運搬導線がさまざまだからである。平坦とは限らず、スロープや階段もあり得、さらにその導線の長短もあるからである。

つづく

 

学歴とは何だ? その6

大学共通テストの実施を皮切りに、本格的な大学受験シーズンが始まった。受験戦争・受験地獄などなど揶揄されることも多い、いわゆる受験だが、この意義をどう捉えるべきだろうか?

大学共通テストの問題を見て、正直なところ「今はこんな難しい問題が出されるんだ、自身のようなロートルにはもう手も足も出ないなぁ」と思いつつ、一方で「これらが今後、社会に出ていく上で直接、どれほど必要なのかなぁ?」とも思う。

よく言われてきた言葉に、読み・書き・そろばんが出来ればいい(生きていける)!がある。確かに、高度な微積分学などが必要とされるのは、限られた特定分野の仕事かも知れない。そこで、これまで繰り返し述べてきた「学歴」=「学びの歴史」にあてはめて考えてみたい。

大学受験を、とりあえず、幼稚園(保育園も含む)に始まり、小学校・中学校(義務教育)、高校を終えるまでの各自の「学びの歴史」の一区切りと捉えてはどうか?と思うのである。

当然ながら、「学び」は大学で終了するわけではなく、社会に出てからもリタイアしてからさえも、一生死ぬまで続くものである。そう考えれば、この大学受験は、「学びの歴史」のほんの一区切りに過ぎず、一種の定期棚卸しと言い替えてもいいのではないか?

これまでの「学びの歴史」を振り返り、今後どのような「学びの歴史」にしていきたいか?を、自身を冷静に見つめ直し、考えるきっかけにすればいいと思う。間違っても回り道をしてもいいから、まず実際にやってみて考えればいい!と言ったのが元メジャーリーガーのイチローである。

コロナ禍の中、制約された非常に厳しい条件下で本当に苦労しながら奮闘し頑張っている受験生、就活生はじめ若者たちすべてに、結果の如何を問わず心から拍手(声援はコロナ感染防止のため控えるが・・・)を送りたい。

つづく

 

EVカーの未来 その3

日本の自動車メーカーT社が、世界販売台数第一位になったのと相前後して、T社とEV技術で技術提携したある国のEV技術メーカーがメディアに語った言葉が衝撃的である。「T社から得たい技術など何もない、得たいのはT社のネームバリューだけだ!」

自社の技術を売り込むために、(信用を高める意味で宣伝用に)T社の名前を借用したいだけという主旨のようだが、あらためて、T社もなめられたものだと思わざるを得ない。ただ、今や、日本のEVカーは、ある国や欧米各国に比較し、周回遅れの状況にあることは否定できない。

EVカーの未来を考えると、EVカーはこれまでのクルマの概念を根本から変えるものになるかもしれない。四輪を装備するものでなく、地上を走行するものでさえなくなる可能性もある。AIやロボット機能などを満載したドローンのように、縦横無尽に地を這い空を飛ぶかもしれない。

近未来であっても、EVカーには以下の三種の神器が搭載されるのではないだろうか?それはドライバーをはじめ、クルマ社会で生活するすべての人々がクルマに求める安心・安全・操作容易など必須不可欠の技術である。すなわち、

①完全自動交通事故回避装置、②煽り運転危険運転抑止装置、③完全自動犯罪抑止機能である。これら3つの技術に共通する肝になる技術は、検知機能とリモート操作機能そして搭載ソフト自動更新(バージョンアップ)機能であろう。

以下、次回以降につづく

 

数字マジックの恐怖 その7

急速な感染者数の増加に、オミクロン株への楽観論は萎みつつあるように見える。しかし、なおこの感染者数が実態を表しているとは思えない。なぜなら、オミクロン株は、「無症状や軽症で済み、重症化しない」とみられているためである。

デルタ株でも無症状はあり得たであろうが重症化リスクが高かったため、特有の事情があれば、自ら検査受けを申し出た人もいたと思われる。しかし、オミクロン株は重症化しないとなれば、これまで以上に、自ら進んで検査受けを申し出るだろうか?

もちろん、体調異変や他人への感染を危惧する人は自ら検査を受けると思われる。しかし、なかには、無症状か軽症で済み重症化もしないのに、なぜ、わざわざ検査をして感染の有無を明らかにしなければならないのか?という考えも出そうである。

また、オミクロン株感染者の激増による医療入院体制の逼迫を予想し、すでに自宅療養対応が検討されているが、家庭内感染を助長するリスクは高く、家族や同居人との間に余計な緊張や不協和音を作り出す可能性も高い。

例えば、家族内の誰かが十分な感染防止対策をしていたにも関わらず、運悪く市中感染で感染してしまったとする。無症状だが感染防止のため、家族にはそのことを知らせておきたいと思うのは至極もっともだが、その影響を考えると実際に言いだすのはそれほど容易なことではない。

なぜなら、自分の行動に落ち度があったわけではなくても、家族に生じさせる感染の不安やその後の隔離生活など、家族に強いる神経質で煩雑な生活・行動によって、家族の不満・憤懣が一気に高まるのを懸念するからである。

それを考えると、感染事実を秘匿したくなる気持ちが芽生えるのも分からないではないが、その結果、感染者数の実態をますます把握困難にしてしまうことは明らかである。デルタ株、オミクロン株など株種の違いによらず、感染者数の激増は(少なく見えた)数字マジックの恐怖が真の正体を現わし始めたと思えてならない。

つづく

 

学歴とは何だ? その5

あるTV局のニュース報道番組の特集で、元メジャーリーガーのイチローが、高校野球のいくつかの強豪校から招かれて野球の指導をした後のインタビューで語っていた内容が非常に興味深かった。

それは、文武両道を行くある高校の選手の賢さ、合理的な考え方に感心する半面、練習などにおけるムダを初めから徹底して排除しようとする合理性に、若干の違和感・疑問を感じているように見えたからである。

イチローは言う、「・・・ムダはあってもいい、ムダを知っての合理性だから・・・」ストイックなイチローらしい言い方だが、中々説得力がある重い言葉だと思う。ムダは間違いや回り道をすることと言い替えると分かりやすい。

メジャーで殿堂入りが確実視されるほどの活躍も、そこに至る過程には数えきれないほどの間違いや回り道をしたが、それを経験したからこそ求める合理性にたどり着けたという意味なのだろう。

だから、間違っても回り道をしてもいいから、頭で考えるだけで(合理性の)結論を出すのでなく、まず実際にやってみて考えればいい!ということのようだ。そして、まさにここに、イチローの学歴観(キャリア観)を見る想いがする。

すなわち、常人には真似できないとされる振り子打法など、イチロー野球が編み出した究極の合理性を、イチローの「学歴」に例えれば、それは間違いや回り道を繰り返したイチロー自身の「学びの歴史」の集大成と言っていいのではないだろうか?

つづく