つれづれ雑ぐさ

新たな時代変化への想いを、自身の実体験とともに日記調に書きなぐったものです

最高のぜいたく その1

最高のぜいたくって何?と考えていたら、最近、自ら行った活動・体験がまさにそれではないか?と気付いたのである。ある絶好の秋晴れ日和、見頃真っ盛りの紅葉狩りに最適な平日の昼前、あらかじめ予約していた公営のテニスコートへ出かけた。そこは、何面ものコートを備えるが、自身の予約したコートは、管理事務所から少し離れた森林の中に位置する第2エリアのコートで、8面ある中の1面である。

何の目的で、何人の仲間を誘ったのかと問われれば、ゲームではなくテニス技術をマスターするための個人練習が目的だったため、誰ひとり誘っていない、お一人様である。また、平日でありサラリーマンが付き合うことは難しいと思っていたこともある。もっとも、相手がいても構わない練習課題もあったため、代わりにテニストレーナという、お一人様練習向けの器具も持参はしていた。

到着して、最初、コートに立って見た情景は、すでに練習を終えて散会し帰っていく高齢者のグループ1組(1面使用)だけだったのである。「まさか?これからの2時間、私ひとりなのかな?」という思いがよぎった。寂しいとは全く思わなかったが、本当かな?と思ったのは事実である。時間帯にもよるが、平日でも、何組かを見かけることはあったからである。自分以外に誰もいないテニスコート!最高のぜいたくと感じた想い(気付き)は、ここから始まる。

その2に続く

内燃機関の終焉

ついに内燃機関の終焉に向けたタイムテーブルが決まった。ガソリン車(含むディーゼル車?)の引退が要請され、次期の主役に電動車(EV車)が踊り出るのである。ある意味、温暖化など地球規模での環境問題が、いかに緊急かつ重要な課題であるかを示しているとも言える。

内燃機関の代表であるエンジンは鉄が主体であるが、電動車のモータも鉄が主体である。しかし、鉄の蒸気機関車が鉄の電車に変わったのは、もうずっと前なのに、クルマがエンジンからモータに代わるのが、これほど遅れるのはなぜなのか?

やはり、モータ駆動源であるバッテリ(電池)開発が、ガソリンを燃料とするエンジンに比べると開発が難しかったのだろうか?確かに、今や電池は、さまざまな種類が開発され商品化されており、我が世の春を謳歌しているようだ。

もちろん、これまでのエンジン車にもバッテリは搭載され、発電機(オルタネータ)と組み合わされて高度化する一方の電装品の作動を担ってきたことは確かだ。しかし、エンジン(クルマの心臓部)に成り代わる大電流電池までの成長は遂げていなかったということかも知れない。

ハーレーダヴィットソンの大型バイクも疾走し始めた。これまでの重厚な振動音を響かせてきたエンジンは、かん高めの静かな回転音を発するモータにバトンを引き渡して消えていく。

元を取る その3

元を取るという意味で、いわゆる公共施設の利用度は重要だ。なぜなら、建設・設置・運用に多額な税金が投入されている。そのため、これらの施設の利用度が高いほど、払った税金を回収していることになる。公共施設とは、国・県・市などが所管する、図書館や各種スポーツ施設、コミュニティー会館なども含む。これらは、国民に利用する権利が、平等に付与されているのだが、実際の利用においては、非常に偏りのあるのが現状だ。

例えば、公営のテニスコートは、利用料金が非常に安いこともあり、土日は利用希望者が多く、予約段階から抽選含みで、なかなか利用の恩恵に預かれない。これに対して、平日はガラ空きである。これは、サラリーマンの基本カレンダーである平日:仕事出社、土日祝日:休日のせいによるものであるが、やむを得ないことなのだろうか?

新コロナ感染症禍で、サラリーマンの働き方が変わってきた、平日のリモートワークである。リモートワークであれば、会社に出社する日は限られてくるため、自宅でリモートワークとフレキシブルタイムを組み合わせれば、自宅で仕事をしながら、その合間に、近くの公共スポーツ施設を利用して好きなスポーツを楽しむことも可能になる。また、自宅でのリモートワークなどによる家族3密の緊張・ストレス発生の恐れがあるならば、リモートワークの場所・基地を図書館に移動する手もある。

こうすることにより、公共施設の平日利用度は大幅に向上するとともに、休日利用度との較差も減少していき、日ごとの利用平準化も進んでいく。結果、利用者の利用機会も増やせるため満足度も向上することになる。公共施設を造った側は、税金を使って社会(利用者)により良く奉仕できていることで、また利用者側は、払った税金をもとに公共施設を安い費用で思う存分利用できることで、共に「元を取る」ことになるのである。

元を取る その2

元を取るという意味で、時間は取り戻せると思う。もちろん、物理的に過ぎ去った時間を、タイムマシンのように、そのまま取り戻せるわけではないが、実質的に取り戻すことはできるという意味である。例えば、若かりし頃、仕事や家事などで忙しく、したいことができなかった過去の時間を、時間に余裕ができたときにこそ、それをすることで取り戻せるのである。

ただ、このときに、留意すべき点がある。例えば、どんなことでも、過去の若かりし頃とは違い、同じことをするにおいても、時間経過による自身の変化を意識しておくことは重要である。例えて言えば、体力や記憶力などの諸機能低下の可能性も考慮し、時間がかかることを覚悟することである。その上で「継続は力なり」の精神で行う限り、したかったことは必ずできると思う。

一方、残る課題は、新コロナ感染症禍での外出自粛により、一生に一度しかない、メモリアルな卒業式や入学式などの行事を経験できなかった、無念の想いに満ちた方々への配慮である。この対策は、感染症禍の終息後、どんなに後になっても、もう一度、同じ内容を実施してあげることである。そうすれば、関係者の無念も晴れ、実質的に時間を取り戻した実感が持てると思う。

元を取るとは、辞書的に言えば、行動に対する相応の利益や満足感を十分に得ることのようであるが、感染症禍の収束が未だ見通せない将来不安の中にいる今、過ぎ去った時間を取り戻すことも元を取ることの一つと思う理由がここにある。

日記を投稿する意味

日記を書いても、必ずしも投稿する必要はないと思っている。日記は、本来、自分のために書くものだからである。すなわち、自分および周りに起きた日々の出来事、それに対して感じた自身の想いなどをメモ、備忘録など体裁を問わず書き記せばいいと思うからである。

では、なぜ、投稿するのか?を考えてみると、以下のような情景がイメージできる。子供の頃、池のほとりに遊びに行き、いたずら心も手伝って池に石ころを投げ入れた記憶がある。投げ入れた石は、ポチャッと音をたてて静かな池の水面に波紋を起こして消えていく。波紋は少しの間、水面をざわつかせるが、やがて元の静かな水面に戻る。この情景に見とれ、飽きるまで何度も投げ入れを続けた覚えがある。

そして、この石ころの投げ入れに例えた行動こそ、日記を投稿する意味ではないか?と思うのである。自身の経験やその想いを、日記の投稿という形で(池の水面に当たる)社会に投げ入れ、その反応を見たい、感じたいのではないか?換言すれば、社会との関わりを確認したいのではないか?

もちろん、投稿に対する反応には、共感もあれば異論もあろう。しかし、そのことで自身の経験やその想いが、単に自分ひとり(個人)の問題にとどまらず、深く社会と繋がっていることを、あらためて実感できることも確かである。そんなことを思いつつ、今日の日記の書きネタは何にするか?と思案する自分である。

良き「師」と出会う意義

師とは、先生、講師、コーチなど、分野により様々な呼称で呼ばれるが、教える人・指導する人という意味である。

長年、趣味としているスポーツ、一時期はスクールなどにも通い打ち込んだものでも、やはり上達を目指す過程では、壁にぶつかることがある。そのとき、自分の工夫、努力だけで、その壁をぶち破れればそれに越したことはないが、実際はなかなか難しい。我流が染みつくことによる、基本セオリーからの逸脱が原因ではないか?と思う。

このとき、我流の染みつきを矯正し、基本セオリーに戻して、さらなる上達の可能性を引き出してくれるのが良き「師」である。「師」は、リアルをはじめYouTubeなどのネット世界にも多くみえるが、その選択がまた、なかなか難しい。

自分に合う良き「師」に出会えれば、人生の楽しみを膨らませ、より大きな満足感を得られることは確かである。今、世の中に「師」が輩出する中、各個人に、その選択眼が問われているように思う。

記録の大切さ

3日前の食事の献立を覚えている人がどれくらいいるだろうか?恥ずかしながら、自身は、前日の夕食の献立すらもすぐには思い出せないことが多い。年齢のせいなのか、済んだことであり大して重要なことでないと思っているせいかは定かではない。

これに対して、これからの予定はよく覚えている。忘れないように絶えず意識しているからかな?と最初は思っていたが、どうもそうではないことに気付いた。そう、カレンダーなり、手帳にしっかり書き込んで(記録して)あるからである。記録してある予定を見れば、うっかり忘れていた予定も思い出せるわけである。

この記録が威力を発揮している典型例がある。母子手帳と育児日記である。自身は男なので、詳しい内容は分からないが、母子手帳は、妊娠した女性の胎児成長と母子健康の記録であり、育児日記は、生まれた子どもの順調な生育を願いつつ子どもを育て見守る父母の記録である。

この母子手帳や育児日記は、あとから振り返って見ても活用性が高く、その記録の重みがひしひしと伝わってくることが容易に想像できる。「・・・あの1歳児検診で、保健師さんから言われたことには一時本当に心配したね、でも結局なんでもなくて・・・今はこんなに元気に育って・・・」とか、働き盛りの人などの場合であれば、「・・・毎日の健康日記を付けていたおかげで、大病を早期発見でき助かった・・・」などの例も結構ある。

記憶はたちまち忘却の彼方に消え去るが、記録が残って(記録に残して)いる限り、記憶を蘇らすことができる。メモ、備忘録、日記など形・体裁はどうであれ、記録に残すことの大切さを、あらためて実感する今日この頃である。