つれづれ雑ぐさ

新たな時代変化への想いを、自身の実体験とともに日記調に書きなぐったものです

当事者意識

コロナ感染症禍の拡大に、毎日のようにメディアに登場している、各分野の高名?なコメンテイターは多い。コメントしていることは、それなりに理解できる部分もありながら、何となくしっくりと腹に落ちない。

その理由は、結論的に言えば、「当事者にならなければ(なったことがなければ)、真の当事者意識は持てない!」ということである。夢も希望もないようなことを言わざるを得ないのは、非常に残念であるが、事実であろう。

例えば、理不尽な交通事故で、家族や愛する人を奪われた人の痛みを、他人が「本当にお気の毒に・・・」と同情することはできても、良し悪しは別としてそれが精いっぱいであろう。自分たちの身にそういうことが起こらないように祈るのみである。

コロナ感染症禍の拡大においても、まったく同じことが言える。感染し生死の境をさ迷い、家庭崩壊、愛する人との別離などを経験したことのない(そこまでいかなくてもいいが・・・)人に、当事者の気持ちを代弁させることは不可能に近いことである。

なぜ、ことわざ「経験者は語る」が重いのか?それは、経験者にしか語ることができないこと(例えば、苦しみ、悲しみなど)があるからである。しかし、経験者は決して自らは語ろうとはしないであろう。

なぜなら、(本人にとって思い出すのも嫌な)「辛すぎる」経験だからである。その「辛すぎる」想いを共有できない限り、他人が、真の当事者意識を持つことなどできないのではないだろうか?

つづく

 

見えてきた五輪の将来像 その4

東京五輪で、アスリートの悲鳴が聞こえてきている。「こんな酷暑の危険な環境下で(生死がかかるような極限状態の)競技をさせるのか?!」という抗議も含めた悲鳴である。まったく、もっともな意見だと思う。

通常ならば、一般人には「この酷暑の中では、野外スポーツは危険なので控えてください!!!」と警告している状況である。アスリートは、普段から身体を鍛えているから大丈夫とでも考えているのだろうか?

アスリート・ファーストとは、アスリートの競技環境における健康・安全面を熟慮したものでなければ意味がない。アスリートがコロナ感染しているか否か、他に感染させる恐れはないかだけではない。

そういう意味で、これからの五輪は、ことわざ「適材適所」ならぬ、「適時適所(自身の考えた造語であるが・・・)であるべきである。適時適所とは、アスリートが、競技をするのに相応しい時期(含む時間帯)・場所を選定するということである。

すなわち、開催時期に、例えば酷暑、風水害など悪環境が予想される国を選定から外すのである。今や五輪は、競技場に足を運ばずとも、自宅(自国)でインターネットを通じて見られる環境にあると前回も述べた。

したがって、アスリートが環境に恵まれた世界のどの国で競技に参加してもよく、むしろ、アスリート・ファーストに徹し、適時適所の言葉通り、競技種目毎にその開催時期・会場が世界中に分散していても、何の問題もないのである。

そうなって初めて、アスリートが、誰のためでもなく、自分のために真に心から「さぁ舞台は整った!よし、頑張ろう!」、また、競技結果に関わらず「精一杯、頑張ってよかった!」と思える五輪になるのではないだろうか?

つづく

 

見えてきた五輪の将来像 その3

スポーツ祭典の中で、なぜ五輪だけが、こんなに多くの種目を一度に一国で実施しなければならないのか?4年に1度だからという論理は、分かったようでよく分からない。仮に、4年に1度という開催スパンの制約を外せないなら、各種目の実施をワールドワイドに分散させたらどうだろうか?

例えば、今回の五輪年度は、水泳は日本、陸上はフランス、柔道はオーストラリア、バドミントンは南アフリカなど、世界各国に競技種目を分散させればいいのではないだろうか?この方法による開催は、あらゆる面で計り知れないメリットを生む。

五輪施設建設への投資は膨大であるが、ほとんど1回きりの使用を前提としており、五輪後の活用による投資回収の目途は立たないことが多い。東京五輪のような無観客開催ならばなおさらである。結果、莫大なハコモノ建設コストは、最終的に国民に増税という形でツケ回しされるのである。

これが例えば、日本が種目として「水泳」だけを担当すればよいことになれば、ハコモノとして新設するにしても、せいぜいスイミングプール程度である。どんなに豪華な装備・機能を盛り込んだとしても、投資額は知れたものとなり、投資の回収も極めて容易になる。

前回から述べているように、今や五輪は、競技場にわざわざ足を運ばずとも、自宅(自国)でインターネットを通じて見られるので、競技種目毎にその会場が世界中に分散していても、何の問題もないのである。換言すれば、今後の五輪は、競技種目・会場世界分散型の拡大版ワールドカッブに変化していくべきではないだろうか?

つづく

 

ドクダミの復権 その2

どうしようもない、やっかいものと思い込んでいたドクダミの効用を知ってしまうと、何か幸せな気分になってしまうから不思議だ。野草の一種なのに、自宅に住みついた守り神:植物版「ヤモリ」のように思え、かわいくなってしまうのである。

早速、ドクダミの葉・茎・根などを摘んで、何か作ってみようと行動を始めて気付いた。ドクダミの葉を摘む時期にも旬があるということのようだ。花が咲く時期をとうに過ぎた今では、葉に何となく精彩が感じられないのである。

これで、希望するような効能のあるモノが出来るのか不安がよぎる。しかし、着手したことである、ダメ元でトライを開始した。とりあえず準備したものは、100均で購入した水切りザルとお茶パックである。

摘み取ったドクダミの葉などをよく洗ってしっかり乾燥させた後、細かく刻んでパック詰めすることを考えているのである。この程度のことで、ドクダミの効能を感じられればいいのだが・・・

つづく

 

見えてきた五輪の将来像 その2

五輪において、一堂に集わなければならないのは、基本、競技に参加するアスリート、競技の公平性を担保する最小限の大会関係スタッフである。そして、忘れてはならないのが、各国メディアである。

なぜなら、世界各国に、情報を配信する極めて重要な役割を負っているからである。五輪を見に行きたくても行けない人々は多い。さらには、戦禍や貧困、飢餓・疫病などの災害に見舞われ、五輪どころではない国々も確かにあろう。

しかし、そうであっても、五輪開催の状況は伝える必要があるように思う。なぜなら、それが紛れもない現実だからだ。各国における賛成・反対・批判など様々な反応を含め、その現実と反応を伝えられるのは、メディア以外にないのである。

そういう意味で、これからの競技場に最低限必要なのは、巨大な観客席ではなく、世界各国メディアが、競技の状況・感動を各国に情報発信できるメディア(取材記者)席の確保なのである。

古代コロセウムの時代から「競技は競技場へ行って見るもの」という現地主義に基づいてきた。しかし、グローバル高度情報社会となった今後は「(例えパンデミック等による異常事態でなくても)五輪競技は、基本、世界中でインターネットなどを通じ、自宅(自国)で見るもの」に変貌していくのは間違いない。

TVに映しだされる無観客の国立競技場を見ながら、現在の巨大競技場はどのような規模・形態に姿を変えていくのか?観客で埋め尽くされた50年以上前の国立競技場放映シーンと見比べながら思いを巡らす自分がいた。

つづく

 

見えてきた五輪の将来像

東京五輪の競技中継を見ていて感じたことがある。それは、無観客でもまったく違和感を覚えないことである。メディアも観客のいない観客席にカメラを振る意味がないため、その分、アスリートの一挙手一投足に焦点を当てて中継しているように見える。

よくよく考えてみれば、アスリートの活躍、頑張りさえつぶさに見ていられれば、観客席の動向(応援・熱狂ぶり)などどうでもいいのかも知れない。むしろ、メディアが、アスリートの活躍ぶりをそのプロセスやエピソードまで含め感動物語として、うまく構成、表現してくれたものを見ている方がより嬉しく、楽しいのである。これこそ、まさに、アスリート・ファーストということではないか?とも思う。

もちろん、アスリートの活躍を、現地現物で間近で見たいという人たちの想いも分からないではない。しかし、古代コロセウムの巨大競技場があった時代と、現代を比較すると、決定的に大きな違いがあるのではないか?それは、現代が、インターネットなどのメディアが世界を巡る高度情報社会であるということだ。

現地現物でしか、アスリートの活躍を見られなかった時代は、競技場に直接足を運ぶしか方法がなかったのである。そして、競技をみたい多くの人たちを一堂に収容するために、その競技場は巨大にならざるを得なかったのではないだろうか?

つづく

 

ことわざの重み その14の3

量から質への転換につながる、技術の壁を乗り越えられそうな兆候は事前に出てくるが、これが出来た(壁を乗り越えた)と実感できる(理想)までには、まだちょっと開きがある。そこで、自身の経験では、この「もう少しで、出来そうかな?」という兆候が表れたら、そこで一旦練習を切り上げてもよいと思っている。

なぜか?「もったいない!もうちょっと辛抱して出来るまで頑張っちゃったら?」と言う意見も出そうであるが、焦らず欲張りすぎない方がいい!理想との開きはまだあるのだから。具体的には、1回の練習時間に枠をはめ、思うように出来てもできなくても1時間までなどとしておくとよい。

「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」のは、数撃つ元気・パワーが継続しての前提である。疲れてくれば、下手な鉄砲は下手さが増すばかりである。したがって、次回の新たな元気・パワー漲る練習時まで、上達実感の喜びを楽しみに取っておけばよいのである。

まさにそれこそが、練習継続への動機づけともなり、それこそ、ことわざ「継続は力なり」の重みを実感することになるのである。

つづく