つれづれ雑ぐさ

新たな時代変化への想いを、自身の実体験とともに日記調に書きなぐったものです

当事者意識

コロナ感染症禍の拡大に、毎日のようにメディアに登場している、各分野の高名?なコメンテイターは多い。コメントしていることは、それなりに理解できる部分もありながら、何となくしっくりと腹に落ちない。

その理由は、結論的に言えば、「当事者にならなければ(なったことがなければ)、真の当事者意識は持てない!」ということである。夢も希望もないようなことを言わざるを得ないのは、非常に残念であるが、事実であろう。

例えば、理不尽な交通事故で、家族や愛する人を奪われた人の痛みを、他人が「本当にお気の毒に・・・」と同情することはできても、良し悪しは別としてそれが精いっぱいであろう。自分たちの身にそういうことが起こらないように祈るのみである。

コロナ感染症禍の拡大においても、まったく同じことが言える。感染し生死の境をさ迷い、家庭崩壊、愛する人との別離などを経験したことのない(そこまでいかなくてもいいが・・・)人に、当事者の気持ちを代弁させることは不可能に近いことである。

なぜ、ことわざ「経験者は語る」が重いのか?それは、経験者にしか語ることができないこと(例えば、苦しみ、悲しみなど)があるからである。しかし、経験者は決して自らは語ろうとはしないであろう。

なぜなら、(本人にとって思い出すのも嫌な)「辛すぎる」経験だからである。その「辛すぎる」想いを共有できない限り、他人が、真の当事者意識を持つことなどできないのではないだろうか?

つづく