つれづれ雑ぐさ

新たな時代変化への想いを、自身の実体験とともに日記調に書きなぐったものです

いたずらの本質

いたずらは、悪戯と書き、字面からも何か憎めない悪ふざけのイメージが感じられる。子供のいたずらはその典型である。子供が成長して知恵をつけていく過程でおきるいたずら、その本質は一体何だろうか?自身の体験から、振り返ってみる。

一個買うとその中にそれぞれが銀紙と帯状の包装紙で包装された、6枚ほどの板状のガムがある。その中身をすべて食べた後、包装だけを元通りに丁寧に戻し、あたかもこのガムが封を切った、食べかけ途中のように装わせた上で、誰かがそのガムをうっかり落としていったかのように、歩行者等が往来する道路上にさりげなく置く。

そして、その状況を離れた場所からこっそり見守るのである。目的は、もちろん、そのガムを拾いかつまた中身を開ける人が現れるかどうか?また、そのときの反応である。今、思い出すだけで恥ずかしく、赤面してしまうような子供のころの他愛無い「人騙し」いたずら(ワナ)である。

仕掛けたワナに引っ掛かる人が現れるかどうか?また、引っ掛かった人が現れた場合その人の反応を見たいのである。これは、収穫の終わった枯れ空畑に、スズメを捕まえるための、中に米粒を蒔いたレンガ組みのワナを仕掛けた経験と似通う。

両者の行動の共通点は、行動の善悪はさておき、自身のトライしたことに対する、未知なる結果への興味・期待感である。そんな幼稚な騙しに引っ掛かる人がいたのか?そんな仕掛けで、スズメが捕まえられたのか?記憶が定かではない。

ただ、自身を、そんな行動に急き立てたものは何だったのか?を考えてみると、それは、やはり好奇心であったような気がする。いたずらは、内容(悪さ加減)によってはこっぴどい仕打ち・報いを受けることも当然あり得る。

しかし、誰の相談・許可も得ず独断で、行動の全責任を負い、こっぴどい仕打ち・報いも覚悟して、なお、自身を、いたずらに駆り立てた「好奇心」、そこに、いたずらの本質を見る思いがしてならない。